学校では「句切れ」について、「短歌の中で、言葉のつながりや意味のうえから、切れ目になるところを、句切れといいます。」と習います。そして、「〈その子二十歳(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな〉は、初句切れ。〈観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)〉は二句切れ。〈マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや〉は、三句切れ。〈細胞のなかに奇妙な構造のあらわれにけり夜の顕微鏡〉は、四句切れ。〈くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる〉は、句切れなし。」と教えられます。
そこで、「句切れ」の「句」というのは、句読点の句と同じ意味で、文という意味だ。つまり、「句切れ」というのは、一つの文が終わって、次の文が始まるところということだ、と理解します。
でも、それならば、「句切れ」は、「短歌が、二つの文からできあがっているとき、一つ目の文の終わりを句切れといいます。」と言えばよいのに、どうして、誤解を招きやすい、「短歌の中で、言葉のつながりや意味のうえから、切れ目になるところを、句切れといいます。」などというのだろう。この言い方では、上の句と下の句の間が句切れだと思ってしまう人が出てきてしまう。などと疑問を持ち、これについて考え込むのは欲張り勉強法の代表です。